分析哲学入門 親や職員の「だから言ったのに」「私の言ったとおり」は錯覚!?

公開日: : コラム

「分析哲学入門」(八木沢敬著 講談社選書メチエ)


その中にこんな話があります。

そこら中に張りぼての納屋が建っている地区があるとします。

納屋

張りぼての納屋はとてもよくできており、ちょっと見ただけでは本物の納屋と区別がつきません。そこをKさんが車で通ったとします。その地区にあるのが張りぼてだらけの納屋だと知らないKさんが、その中のある納屋を本物だと判断します。そして、その納屋はたまたま本物でした。

それはKさんの「知識」だと言えるだろうか?



職員の不安が当たる仕組み


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児童福祉で子供相手の仕事をしていますと、いろいろな職員がいます。もちろん私もその「いろいろ」の中のひとりです。

心配性だなあ

という職員がいると、「子供の外出を制限する」というなことが実際に起きます。そりゃあ、たいがい何かが起きるのは外ですから。

「その子が事故などのトラブルに巻き込まれるといけないから、その子を守るため」

というとき、それは「知識」といえるだろうか?ということを考えました。


もうひとつの例。

今度は子供の「健康」の心配です。「あの子は様子がおかしい。あぶない」と「心配」する職員は「知識がある」と言えるでしょうか?

答え(私の)は、

その職員本人にとっては「イエス」です。


心配をしている職員にとっては、たとえば外出をしていたある子どもが時間通りに帰ってこなかった場合、それも「トラブル」に見えてしまうのですから、

ほら私が思ったとおり

ということになるのです。


「健康」でもそうです。職員が心配していた子どもが、健康診断で何かしら引っかかれば

ほら私が心配したとおり

となるのです。

分析哲学では「ラッキーな偶然性」という言葉があります。まだ入門段階ですので、私が出したふたつの例がそれに当てはまるのかは自信がないのですが、

あたかも自分が事前にわかっていたかのような「錯覚」、それはとても気持ちがいい錯覚ですが、そこに陥ることは簡単にできるのです。

こんな例もあります。

子どもに自立のための「貯金」を促すのは私たちの役割のひとつですが、それにまったく従わなかった子どもが現在、とてもお金に困っています。

だからあれだけ口をすっぱくして言ったんだ

こんなことを言う職員もいますが、これも「ラッキーな偶然性」でしょう。まるで自分たちが事前にわかっていたかのような「錯覚」を起こして気持ちよくなることに気をつけよう。










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