親が自分の心に問いかける 子どもの試し行動と暴力の関係
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コラム
「子ども」という言葉と「暴力」という言葉をよく目にするようになりました。
私は児童福祉に関わっているので目に入ってとうぜんかもしれませんが、この二つの言葉がどうも私にとっては相いれないのです。そこで、その間に「試し行動」という言葉を挟んで少し印象を変えてみたいと思います。
参考にするのは、「養育事典」(明石出版)です。
試し行動とは?
出典 写真素材足成
この言葉を耳慣れないのはとうぜんで、児童福祉に関わるある方の造語なのです。その方は里親と里子が“親子になる”過程である共通項があることに気が付き、それを「試し行動」と名付けました。
「赤ちゃん返り」という言葉は一般的に知られていますね。これも「試し行動」のひとつとして語られています。
もうすぐ5歳になる娘が、最近また抱っこをせがむようになりました。
私はどうするか?「もう赤ちゃんじゃないんだから」と拒むか?いや、
子どもが満足するまでやるのです。
これを“受けとめる”と言いますが、これが子育てのすべてといっても過言ではない、私はそう思っています。
なぜか?という問いに対しては、「子どもには自分の欲求の表出を丸ごと受けとめてくれる存在が必要」という循環論法みたいですが、そのような答えになります。
試し行動という言葉について
出典 写真素材足成
この言葉は児童福祉の世界ではかなり浸透しています。しかし誤解をされることも多く、「大人を試す」という“いやらしい”行為を子どもがしているというニュアンスで語られることがあるのです。
あくまで、それは「受けとめ手」という子どもの生存にとって必要な存在に対してなされる根本的な欲求のようなものであり、その欲求を受け止めることは、先ほども書きましたが、私にとっては“それが子育てのすべて”ともいえるようなことなのです。
暴力と試し行動の関係
出典 写真素材足成
先日、娘とおもちゃの楽器でセッションをしました。何か上手くいかなかったのか、娘はおもちゃのタンバリンを私に投げつけました。
私はそれを“暴力”とは捉えませんが、説明上そのようにしておきます。
さて、私はどうするか?やり返すか?いえ、やり返しません。
子どもはすぐに落ち着いて笑顔に戻りました。
あくまでこれは私のやり方です。私と同じようにする必要はありません。こういう場合、叱るのが妥当と考え、そうする方がいても構わないと思います。
「暴力」という言葉にはすでに「わるい」というニュアンスが込められています。ですから私は、このような子どもの行動を含め、すべて「子どもの欲求の表出」と捉えています。
しかもそれは、誰か(多くの場合は親)に“受けとめてもらいたい”欲求なのです。
先日、私の知り合いの女性が町中で暴れました。警察官がきて取り押さえようとしましたが、それでも彼女は暴れました。
幸いに彼女の知り合いのある方が来たおかげで彼女は落ち着くことができました。その方が来て最初にやったことは、彼女を取り押さえようとする人たちを落ち着かせることなのです。
それでも警察官は興奮が冷めないらしく彼女に対して怒鳴り声をあげていました。
さて“暴力”に対してみなさんならどうしますか?