子育てをやってて感動!5歳の娘と友達のいい話 対象とは?
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コラム
家族で友達の家に遊びに行きました
5歳の娘同士も友達で、家が離れているので年数回ですがお互いの家に遊びに行ったり来たりしています。
友人の家でしばらく遊んでから近くの公園に行きました。友人の子供はうちの娘とフリスビーで遊ぶのをとても楽しみにしていたようです。
ところが、娘は公園の遊具で遊ぶのが楽しみ。しかもそこの公園の遊具は私の知る中では「日本一」。お城と見まがうようなアスレチックがあります。
フリスビーで遊ぶことができない友達は大泣き。荒れてしまいました。
15分くらいそんな状態が続いた後、私の娘が友達の近くへ寄って行ってこんなことを言いました。
「○○ちゃん、ごめんね。一緒に遊ぼ」
ふくれっ面をしていた友達が、しばらくすると娘と抱き合いました。
とても感動的なシーンでした。
その後はうちの娘が別のことで荒れて友達にまで当たりちらしてしまいましたが。
※「対象」の存在はなくてはならないもの
それにしても、喜怒哀楽をぶつける相手がいることで私は安心しています。児童養護の世界では「対象」と言ったりしますが、そういう「対象」を獲得できているのは健全な証拠なのです。
もちろんその「対象」の代表格が「親」ですね。うちの娘はガンガンぶつかってきますので安心しています。私の力量不足で受け止めきれないこともあるのでそこは私の問題ですが。
「対象」を獲得できていない状態というのはどういう状態かというと、自分の心からわき起こってくるあらゆる感情がすべて「自己完結」なのです。
たとえば、成長すれば特に男性は「性的な対象」として主に女性を位置づけることになります。ところが、たとえば少年Aについて言われていることなのですが、「性的な快感」が「自分だけ」のもので、そこに対象としての「女性」がいないのです。
彼は今でもその「対象」を獲得することができていない、おそらく彼には「対象」という言葉の意味もよくわからないと思いますが、そんな彼にとって「書く」という行為が「対象」の代替物のようになっているのではないか、という話なのです。
前半と後半で話のトーンがまったく違ってしまいましたが、いろんな感情で友達とぶつかり合う娘の姿をみることができて親として安心しているところです。