小林正観さんからこう聞いた第四章①歓喜
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最終更新日:2022/08/23
小林正観さんからこう聞いた
歎異抄に、このような親鸞と唯円のやりとりが残されています。「なぜ?からはじまる歎異抄」(真宗新書 武田定光著)からの引用です。
現代語訳
「念仏を称えていましても、かつてのようにおどり上がるような喜びが感じられないのはどうしてなのでしょうか?(中略)」と親鸞聖人にお尋ねしましたら、「私〈親鸞〉も、このことが疑問でありました。唯円房、あなたも同じ疑問をもたれたのですね。(中略)教えの道筋からいえば、喜ばなければならないはずです。しかし喜びの感情が起こらないからこそ、よりいっそう弥陀の浄土への往生は間違いないといただくべきでしょう。なぜならば、喜ぶはずのこころを喜ばせないようにしているのは、煩悩がはたらくからです。如来は永劫の昔から私たちを見通されて「煩悩具足の凡夫よ」とおっしゃっているのですから、弥陀の他力の悲願は、このような私たちのためなのだと受け止められて、いよいよ頼もしく感じられるのです。(後略)
ここでなぜ歎異抄を取り上げたのか。それは、ここを読んだときに、SKP時代に私が直面した疑問が晴れたからなのです。正観さんから「私の会社で働きませんか」と言われSKPに入社したときの私は歓喜に包まれていました。しかし、1~2年が経過するとその歓喜が薄れてきたのです。それが当たり前と思える方はいいのでしょうが、私にとっては、SKPに入社できたのがトイレそうじをはじめとした実践の結果だと感じていたこともあり、その喜びが薄れていくことに疑問を感じてしまったのです。感謝が足りないのだろうかと「ありがとう」を口にする回数を増やしたり、トイレそうじが足りないのだろうかとトイレそうじやゴミ拾いをよりするようになったり、右往左往する時期が長く続きました。著者の武田定光さんの解説は以下の通りです。
冒頭の唯円の問いは、信仰に関わるほとんどの人々にとって、避けて通れない問題です。どんな信仰でも、「初体験の感動」がなければ入信は起こりません。しかし、それが長続きしないのも必然の問題です。
この問いに対する親鸞の応答も見事で、長い仏教の歴史の中に燦然と輝くものだと思えます。
親鸞は「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばざるは、煩悩の所為なり」と答えます。親鸞以前の仏教は、お念仏を喜べないのは、修行不足や聞法不足、または能力が劣っているからだと考えてきました。唯円もそう思っていたのです。
ところが、煩悩が作用して、念仏を喜べなくさせているのだから、喜べないのも他力なのだと親鸞はみているのです。煩悩は自力で「起こせる」ものでなく、他力で「起こる」ものです。「起こす」のも「起こさない」のも自分の力でコントロールできるという思いがあるために、「起こる」のは自分のほうに問題があると考えてしまうのです。
私の場合は、信仰の喜びというものではないのですが、そのときの自分がどういう状態にあったのか、唯円の問題提起がものすごく参考になったのです。SKPで働き始めたときの喜びを「取り戻さなければいけない」と、初出社の日に泊まっていたホテル(アパートが見つかるまでしばらくホテル暮らしでした)を訪ねてそのときの気持ちを思い出そうとしていました。喜べるのも喜べないのもお任せ、親鸞の境地はそこまでいっていたことがうかがえます。ただ、これが私と唯円の違いなのでしょうが、私はそれを率直に正観さんに質問しなかったのです。もししていたらどんな答えが返ってきたのだろうか、想像するのも楽しみではありますが。
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