子どもはなぜ学校に行くのか? 不登校から学ぶ、気付く
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コラム
編集者のくりようかんです。
「子どもはなぜ学校に行くのか」(渡辺位著 教育史料出版会)を読みました。「位」は「たかし」と読みます。精神科医の渡辺位(たかし)さん(故人)です。
なぜ“学校に行くこと”を問うのか?
この本のタイトルは、「子どもはなぜ学校に行くのか」と、子どもが学校に行くことを疑問視しています。普通は、「不登校」、子どもがなぜ学校に行かないのか、と悩み考えるわけです。
この本では「登校拒否」という言葉も使われていますが、現在ではこの言葉は使われません。「不登校」という言葉で統一されているので、ここでも「不登校」で統一します。
このタイトルは、もともとは渡辺さんの講演会を主催した方が、講演会のテーマとしてかかげたものです。
渡辺さんは、
不登校はなぜか?その理由は
というテーマで話をさせられる(人にもよりますが、講演者は“聞き手”の要望に応じた話をします)ことが多く、
「不登校を考える会」はあるのになぜ「登校を考える会」はないのか?
と、おそらく周囲に“もらした”のだと思いますが、それで主催者がこのようなタイトルにしたそうです。
私も親として、そして自分の過去を振り返り考えさせられます。
なぜ学校に行くことがあたりまえで、不登校が問題なのか
と
なぜ自分は思うのか?という問いです。
「子どもは学校に行くもの」はマインドコントロール
渡辺さんは、この
不登校を問題にする価値観
つまり、
子どもは学校に行くものだ
という“教え”を
学校心離狂(がっこうしんりきょう)
といって、
カルト
にたとえています。やや過激ですがのせておきます。
学校の権威づけ
もちろんすべての学校がそうというわけでも、すべての先生がそうというわけでもありません。
それをことわったうえで、これは、
学校が教祖のようになる
ということです。
学校のいうこと正しい
先生のいうことは正しい
現在の学校は知りませんが、私はそのような多くの“偉そうな”先生たちと出会ってきました。
先生に反論をしてはいけない
という“空気”でしたが、現在は
先生の言っていることはおかしい
と普通に生徒が言える“空気”はあるのでしょうか。
登校拒否は“文化の森の入り口”だった
後半では、というかすべてにわたってですが、渡辺さんが不登校と関わってきて、ご自身が“気付いたこと”が書かれています。
その“自分自身の学び”を、広い意味で、「文化の森の入り口」と表現されているように思います。
渡辺さんを直接知る人からは、渡辺さんについて
仏教的
という言葉を聞いたことがあります。
不登校を“自然”にたとえて、仏教の“縁起”について話をしているように思います。
「縁起」というのは、いろいろな解説書などがありますが、今ここで私が思い出すのは、
ドミノ
のたとえです。
ドミノは、
すべてがつながっています
つながっていなければすべて倒れることはありません。
個々のピースはすべて同じ大きさ、重さ、材質でできています。ひょっとしたらそうではないドミノもあるかもしれませんが、ここではそれは別の話とします。
“いいピース”と“わるいピース”があるわけでも、“美しいピース”と“汚いピース”があるわけでもありません。
“同じ”ピースが淡々と倒れて、全体の“絵”をつくりあげる
「縁起」をそのようにたとえていました。
学校に行けないのはダメ、成績がよくなくてはダメ
というのは社会から一方的に決めつけられた尺度にすぎず、本当はそんなものはないのではないか、ということです。
このピースはいいけど、このピースはダメ
このようなピースになれ
と言っているようなものなのです。
仏教ではそれ(いいピースとわるいピースがあると思っていること)を「無明」といいます。
渡辺さんは、
大人側の豊かな心が本来は求められているのではないか
とおっしゃいます。
不登校が問題
なのではなくて、
それを問題にする大人の側が、自分がこだわっている価値観や尺度を見直してみては、と提案をしています。
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