交通事故の加害者家族はなぜ立ち上がらないのか?
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コラム
2016年12月2日「東京新聞」
「交通違反をしたドライバーらが対象の講習で、警視庁は、交通死亡事故の遺族と加害者の実話を基に、歌手のさだまさしさんが作詞、作曲した「償い」という歌を聴かせている」
こんな記事がありました。これを読んだ瞬間、私は、映画「ショーシャンクの空に」を思い出しました。
主人公は冤罪で刑務所に収容されました。彼は、人を人とも扱わないようなその刑務所に「人間らしさ」とでもいうべきものを持ち込みます。そのひとつが音楽。詳細は省きますが、彼は刑務所の放送を使ってクラシック音楽を流します。すると、すべての囚人たちが黙り、音楽に耳を傾けます。「彼らの根底にある優しい心」、それを音楽が引きだした、そういう解釈でいいのでしょうか。
「傲慢さ」はこんなときに現れる、という話があります。普段の生活では人格者でも、内側に傲慢さが秘められていると次のときにそれが表出されるようです。
1、大金を手にしたとき
2、ハンドルを握ったとき
3、酔っぱらったとき
一言でいうと「自分が上の立場になったとき」です。ですから、自分が傲慢な人間かどうか知りたければ、この3つを試してみればいいわけです。
さだまさしさんの曲を聞いて優しい気持ちになることができ、ハンドルを握ったときにそれを思い出すことができれば、思いやりのある運転ができるようになるかもしれませんね。
さて、私は最近、犯罪加害者の家族を支援する団体があることを知り、著書を読んだりしました。その中には、交通事故の加害者も含まれます。
そこで、加害者の家族も想像を絶するような状況に追い込まれてしまうのだということを知りました。
親や兄弟ばかりではなく、親戚まで巻き込まれてしまう。そうなると、自分は関係ないと言える人は誰もいないということになります。
それを読んでいるときに、私にこんな疑問がわきました。
加害者家族がその悲惨さを訴えたらどうだろうか?「自分の家族や親戚まで巻き込んでしまうんだ」ということを訴えたら、交通事故は減るのではないだろうか?
実際には行われているのかもしれませんが、それができない理由が述べられていました。
その理由とは、
加害者家族は、自分が「交通事故をなくそう」という立場で物を言うことに罪悪感を感じている
です。
つまり、「自分たちは加害者同然だから、交通事故に気を付けよう、そんなことを他人に言える立場ではない」と、そう自らに言い聞かせて生きているのです。もちろん、すべての人がそうではないと思うのですが、現実にここまで自分を追い込んで生きている方がいらっしゃるということを知りました。
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