井村監督の「褒める=無責任」から考える甘やかすとは?
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最終更新日:2017/01/28
コラム
日本シンクロナイズドスイミング銅メダル
東京新聞を読んでいたらリオオリンピックのこのような記事があり、井村監督の「褒めてのばすは無責任」という言葉がのっていました。
私は児童福祉の世界に身を置いていますが、オリンピック選手を育てるという立場とは根本的に違う、井村監督の言葉はあくまでエリートを育てる世界でのこと、という解釈で落ち着きました。
私は「褒めてのばす」という言い方はしませんが、「子どもを受け止める」という養育論の立場で子どもに接しています。
まあ、養育論の立場で親や養育者に対して厳しい方というのはいらっしゃって、徹底的に親攻撃になる場合があります。そんなとき、親は「○○さんが甘やかすからだ」「甘やかすだけじゃダメだ」「私の周囲の人たちは子どものいいなりだ」などと、言うこととなりますが、その気持ちはわかります。
さて、私としてはこれをいい機会に「甘え」についてまとめることにしました。過去にも書いた気がしますが、まあいいです。
参考文献は「養育辞典」(明石書店)です
「甘え」の定義ですが
「人間関係において相手の好意をあてにして振る舞うこと」
さらにこれを進化させて
「子どもが自分の受けとめられ欲求の実現を図ろうとして、その欲求表出に応えてくれる誰かをあてにした振る舞い」
です。
まず、子どもは根源的に受け身な存在であるという理解があります。子育て中の方ならば、「いや、子どもは主体的に積極的にいろいろなことをする」と思い、むしろそれを見守る自分のほうが受け身ではないか、と思われるかもしれませんが、それは、子どもは親が目の前からいなくなると不安になり何もできなくなる、ということを想像すればわかると思います。
子どもが活発でいられるのは親の存在が前提
そういう意味で受け身なのです。
この「受け止められ欲求」が満たされないと
ごねる すねる ひがむ うらむ ねたむ うらやむ・・・
という行動を子どもは起こすこととなりますが、これらは、甘えたいという訴えに気が付いてもらえない、受け止めてもらえないという甘えの屈折などと言われています。
「甘やかす」イコール「受けとめる」
ということならば、私が実践をしていることなのです。
最後まで読んでくださりありがとうございます。