「私は正しい」は怒り「私は間違っているかもしれない」は優しさ

公開日: : 最終更新日:2017/01/28 コラム

子どもたちとの関わりで気が付いた

私は子どもに関わる仕事をしており、自分自身も5歳の娘の父親です。仕事場での私の評価ですが「私は子どもに優しい」そうです。子どもの話を「うんうん」と聞くだけみたいなことも言われるので褒められているのか・・・。

それはさておき、私からみると子どもに関わる人は「怒っている人」が多い。もちろん、ずっと子どもと一緒にいるような方たちがガソリン切れでイライラしたり“怒ってしまう”ことはあるでしょう。それは私もあります。ただ、それは休息をとれば解決します。
私の場合は、娘と接していてエネルギーが切れたときは1時間くらいひとりで散歩をすれば解決するのです。ただ、最近は散歩をすることも娘からNGを出されているので別の方法をとっていますが。

話をもとに戻しますが、私が言っているのは子どもに対して常に怒っている人のこと。「そんなに怒ることかなあ」なんて思うことはしょっちゅうです。直接的に子どもから何かをされたというわけではないのに怒っている。

そんなことを考えていたら、このような言葉が頭に浮かんできました。

「私は正しい」は怒り 「私は間違っているかもしれない」は優しさ

その“怒り”は「私のほうが正しい」という大人の側の自己表現なんです。子どもに向き合っているときに、「私のほうがあなたより正しいよ」というメッセージを無意識に伝えているのです。

子どもと一緒に過ごしていると「私のほうが正しい」と思えることは山ほどあります。子どもには経験も知識もないのですから。だから常に怒っているのですね。

私は「私は間違っているかもしれない」と常に思っています。なぜかというと、子どもは子どもの人生を歩むんですよね。おそらく、私が死んだあとも私が知らない世界で子ども自身の世界を生きるわけです。

そう考えると、現在の子どもの行いに対する私の判断や評価が「正しい」と言い切ることはできないでしょう。

自分の人生に置き換えてみればわかります。過去を振り返ってみたときに、「自分は正しいことだけをしてきた」と言える方はいないでしょう。私なんか“間違い”だらけです。ただ、現在の私、今こうしてパソコンの前に座っている私が存在しているためには過去のひとつひとつは絶対になければならなかったのです。

それを「正しい」「間違い」で分ける必要はあるのでしょうか?

だったら、今、私の目の前にいる子どもが行っていることが「間違っている」と怒る理由なんてないのではないか、そういう考えなのです。

もちろん、私と同じようにしてくださいというような立場ではありません。「なんで怒るのかな?」と考えていたらこのような答えがでてきたのです。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

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