入学式。社会を変えようとしなければ楽で幸せ
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コラム
今日は娘の小学校の入学式。といっても娘は小学校ではなくフリースクールに通うことになってきたので、入学式も欠席です。ただ、入学式のあとに教科書が配られるので私が取りに行ってきました。前回だったかな、書いたように不登校と言っても娘は小学校に在籍はしており、教室には彼女の席もあるのです。その空席を他の生徒たちはどのように思っているのか、先生はどのように説明しているのか、頭をよぎりました。
私は直接的にではありませんが、不登校およびフリースクールの世界にもう5年くらい関わっています。結局のところ何を目指しているのかというと、「学校に行っている子どもと行っていない子どもがいて当たり前」という世界なのです。
何らかの事情があって学校に行かなくなる、するとその事情からは離れることができますが、今度は「学校に行かない」というそのこと自体が子どもに重くのしかかってしまうのです。
現行の学校制度が始まったのは明治時代ですから、ほんの100年~200年の出来事です。
では、そのために私が何かをするのかというと特に何をするわけでもないのです。積極的に啓蒙活動、「社会を変えてやろう」と意気込んで大騒ぎをするつもりもありません。
それには自分自身の生き方論みたいなものがありまして、たとえば社会がAという状態で私がそれをBに変えようとするとします。すると、とうぜんAをAのままで維持したいという人もいればAをCに変えようと考えている人もいますね。すると争いになりますね。争いにはものすごい莫大なエネルギーが必要です。そのエネルギーを「いかに喜ばれるか?」という方向に使いたいのです。
向こうからやってきたもの、それを広い意味で「頼まれごと」と捉えて丁重に対処するだけなのです。何を言っているのかというと、たとえば、公園で子どもと遊んでいて他の子のお母さんと話になる。「小学校ですか?」と問われれば、「いえ、小学校には行かずにフリースクールに行っています」と私が答える。もし相手がアンテナの立っている方で「フリースクールって何ですか?」とたずねてくれば面倒くさがらずに答えます。
「変えよう」として対話を続ける方がいる。争いになる。「変えるつもりはない」が対話を続ける私がいる。喜ばれる。やっていることはいっけん同じですが、そこから得られる「満足」や「幸せ」には雲泥の差があるのです。
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