なぜ外出制限というしつけは必要か?管理教育は刑務所に習っている!?
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最終更新日:2017/01/28
コラム
監獄の誕生
フランスの哲学者、ミシェル・フーコーの著書です(「フーコーの振り子」のフーコーではありません」)。私がこれから読もうと思っている本です。まだ読んでいないということは、今回の記事はこの本を読んだ方の情報、つまり二次情報や三次情報をもとに書いているということです。ご了承ください。
欧米の刑務所を思い浮かべます。私は、まず「ルパン3世」に出てくる刑務所をイメージしました。実際には刑務所は描かれていないかもしれません。何かで見た刑務所のイメージが記憶として合成されているだけかもしれません。
ともかく、円形の敷地の真ん中に監視塔がありそこから囚人たちは監視をされている、そんなイメージが浮かびます。ポイントは、囚人たちからは監視人は見えない、ということ。
「監視されているかされていないかわからない」という状態が、囚人たちのマインドに服従を作り出すということです。
子育ての話につなげるために、「監視の内面化」「主体的な服従」という言葉を残しておきます。
私は児童福祉の仕事をしていますが、子どもに対する外出制限をしたがるという風潮がこの世界には確かにあります。
タイトルの「なぜ外出制限というしつけは必要か?」というのは反語で、私がそれが必要だと思っているというわけではありません。
一般家庭では外出制限というのはあまり行われないとは思うのですが、どのようなやり方でそれが行われるかというと、子どもが「外出をしたいんですけど」というたびに、「でも仕事に影響が出る」「無駄遣いをしてしまう」など適当な理由をつけて職員がそれを制しようとするわけです。
それを振り切って子どもが外出をしたとしても、あくまで「大人の反対を押し切って外出をした」という状況にしておくわけです。
福祉の場合は施設ということになりますが、やがて外出制限の“空気”が醸成されてくると、もはや理由すら必要ありません。“嫌な顔”をするだけで十分です。
これを繰り返すことによって、子どもの中で「監視の内面化」が起こるわけです。つまり、「外出をしたい」と思った瞬間に職員の嫌がる顔が浮かぶ、のです。実際に、「どうせ嫌な顔をされるから言い出せないんです」とうったえる子どもにあったことがあります。
そして、それを職員に問いただしたとしても、「禁止をしているわけではない」「ダメとは言っていない」「嫌な顔なんてしていない」と言い逃れることができます。
まあ、昨今、露骨に外出禁止をしてしまうと施設内虐待と認定されてしまいますから。
こうして、子どもは「自分が我慢するしかない」となり、職員は「禁止はしていない、子どもは納得済み」となるわけです。
この状態が「主体的な服従」です。
実に巧妙ですが、それはあたり前。この方法を考えたのは、ジェレミー・ベンサムというイギリスの思想家なのです。
もちろん、福祉の職員は子どものことを囚人と思っているわけではありません。ただ、なんとなく真似をする人が増えて、この方法、もしくはその類似方法が広まっているように思います。
私には「主体的な服従」にみえても、他の職員には「主体的に自分で考えて行動している」と子どもの姿がうつっているに違いありません。
くらーい話になってしまいましたが、私の仕事は自分自身が子どもの声を聞いて、子どもが「自分で考え」「やってみて」「失敗して(ほんらい失敗はないのですが)」「またやってみる」ということを繰り返す、そのお手伝いをすることなのです。
実際に、主体的服従に陥らずに前例のないことでもどんどんとやる子どもはとても活き活きとしています。
読んでくださりありがとうございます。