小林正観さんからこう聞いた第一章⑤北海道

公開日: : 小林正観さんからこう聞いた


 私は大学卒業後、警察官になりました。特別なりたいと思っていたわけではないのですが、学生時代空手に打ち込んでおり、そのまま空手を続けられる仕事を探していたということはありました。OBの先輩から「一般企業に就職したら空手を続けることは無理」と言われ、実際のところはどうかわかりませんが、その言葉をそのまま信じたというわけです。




 試験に合格するとまずは警察学校に入学します。学校といっても学費がかかるわけではありません。むしろ、毎月、公務員としてきちんと給与が支払われます。大卒の場合は半年で卒業、その後、それぞれの警察署へと配属されます。この段階では、警察官の卵です。警察官としての権限はありますが、研修という側面が強く、地域課、刑事課、交通課など、それぞれの課を渡り歩いて学びながら仕事をします。それを半年続けるとまた警察学校に戻ります。今度は期間が三ヵ月。これを卒業すれば、いちおう一人前の警察官と認められるわけです。




 私が茶話会で話をしたのは、この卵の期間中に起きたことです。12月のある日、私は「もう逃げ出そう」と思い立ちました。そして、実際に、12月24日に警察寮を飛び出しその後、私は一ヵ月、日本中を警察から逃げ回る旅をすることになりました。正観さんからは「ストレスでノイローゼ状態になったのでしょうね」と言われましたが、特にその後も病院などにはかかっていません。24日の夜は同じ県内のホテルに泊まりました。25日は出勤日だったので、とうぜん警察署では「くりようかんが来ていない、寮にもいない」となります。私は、仕事を放置してしまった情けなさもあり、ホテルで自殺をして25日に発見されるつもりでいました。だから県内のホテルを選んだのです。その卵の期間内にホテルでサラリーマンが首を吊って自殺を遂げた現場にも行きました。ですから、そういうイメージは自分の中でできていたのです。ところが、私にはできませんでした。感覚としては、最初からできないということが自分でわかっているのです。これも、「死ぬこともシナリオで決まっている。その日も決まっている」という正観さんの話の通りなのかもしれません。「死にたいと思う」こともシナリオですが、そこで死ぬのか死なないのかもシナリオで決まっているということです。




 そうなると、今度は、警察に捕まらないように遠くに逃げなければいけません。しばらくは、自分が逃げたことがニュースになっているのではないか、自分の顔写真がメディアに出ているのではないかと思い、びくびくしていました。交番をみると自然に避けるようにもなりました。後で聞いたところによると、私が逃げたのが非番の日だったからメディアに公表はしなかったそうです。もし、当番の日に拳銃を携帯したまま逃げていたら、大ニュースになっていただろうということでした。




 やがて、逃げることにも慣れてくると、私の逃亡生活は一種の旅のようになっていました。琵琶湖や富士山や北海道など、自分が行きたいと思っていた場所を訪れました。




 北海道富良野市でのできごとです。私は手持ちのお金がなくなってしまいました。まだ銀行に残高はあったのですが、正月でどこも休み。まだコンビニでお金がおろせる時代でもありません。よく考えれば何かしらの方法があったのでしょうが、私にとってこれは死に場所を探す旅だ、ということを改めて思い出しました。いわゆる観念したのです。とはいえ、冬の北海道の寒さはとても耐えられるものではありませんでした。夜、駅前のトイレでじっとしていましたが(北海道の公衆トイレは暖房がきいているのか、暖かかった記憶があります)、動いているほうがまだマシだと思い、私は歩き始めました。よりによってその日の夜は吹雪でした。しばらく歩いていると、一台の車がとまりました。中から見知らぬおばあちゃんが「乗れ」と言ってくれました。そして、その日はそのまま家に泊めてくれました。お孫さん二人と暮らしていたようですが、お孫さん二人も、見知らぬ人が来ることには慣れていたようです。おばあちゃんに聞くと、私のように北海道をフラフラ歩いている若者はよくいるようで、家に泊めるのも私が初めてではないようでした。正月で一緒にお酒を飲んだり楽しく過ごし、次の日、旅立つときには5千円を貸してくれました。おばあちゃんのおかげさまで、私の旅はつながりました。




 この話をしたときに、正観さんから「そのおばちゃんにはお金を返しに行きなさいね」と言われ、私は実際に、それから一年もしないうちに富良野を訪れました。正観さんの講演会が札幌であり、それを機におばあちゃんにお金を返しに行ったのです。あれからすでに7年が経過しています。ただ、おばあちゃんの家はすぐにわかりました。不在だったので、近くのおそば屋さんに行きました。あの夜、おばあちゃんが連れて行ってくれたおそば屋さんでした。そこの方に事情を話し、私は、おばあちゃんがすでに亡くなっていること、そこの家にはお孫さんが二人で住んでいることを知りました。お孫さんの帰宅を待つ時間がなかったので、私は手紙を書いて一万円を入れ、郵便受けに入れ富良野を後にしました。私の携帯番号ものせていたので、富良野から札幌に向かう電車の中で、お孫さんから電話があり、いろいろとお話ができました。




 講演会でさっそくその話を正観さんにすると、「それはおばあちゃん喜んでますね」と言われました。

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