妊娠中絶について考えるならこの裁判は知っておこう
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最終更新日:2019/07/18
コラム
【中古】 妊娠中絶裁判 —マリ・クレール事件の記録 |
1972年10月11日、マリ=クレール(17歳)は、刑法第三一七条の禁じている軽罪、妊娠中絶をした理由により、ボビ二少年裁判所に出頭した。
私はこれからこの本を読もうとしているのですが、冒頭のこの一文で衝撃を受けました。「え⁉妊娠中絶で少年院に入れられるのか?」と。現代日本でも「堕胎罪」という罪は存在しますが、いっぽうで「母体保護法」という法律があり、指定された医師がこの法律に基づいて行う妊娠中絶は罪にはならないのです。
結果的に彼女は無罪になります。そして、この裁判は逆に「中絶を禁じる法律」を裁くものへと変容し、現代まで影響(日本も間違いなく)を与えています。
私はかつて中絶を考えている女性に「自分で育てる自信がないのなら里親や施設に預けてもいい。それは虐待ではない」と言ったことがありますが、マリ=クレールは裁判で次のように発言しています。
中絶したことは後悔していません。その子供は孤児院に入れられ、不幸な人生を送ることになったでしょうから
児童福祉にいる私としては、「施設に預けられたから不幸になる」という因果は認めることはできませんが、17歳の少女がはっきりとこのように主張していることは尊敬します。
さて、この本の序文を書いているのはフェミニストに興味のある方で知らぬ人はいないシモーヌ・ド・ボーヴォワールです。
ボーヴォワールがこの「堕胎罪」を「犯罪」と指摘するのは(堕胎が「犯罪」と言っているのではなく、堕胎を禁止することが「犯罪」と言っている)、結果として、女性が生みたくない子どもを産まざるをえない、そしてそれが「見捨てられた子どもたち」「しいたげられた子どもたち」「孤児院に委ねられた子どもたち」を生み出すからです。「大部分の犯罪者はこのような状況で人生をスタートしている」というのは、先ほどと同じように、「施設に預けられたから不幸になる」という因果のようで私は認めることはできませんが、堕胎が犯罪であり、それによって多くの女性が傷ついているという時代背景においてその社会に立ち向かうひとつの論拠として出てきた話なのかもしれません。
私自身は、「堕胎がいいかわるいか」という意見の持ち主ではありません。仕事がらそういう状況に出会ったときに、私がその女性に対して「思いやり」という部分でどのような言葉をかけることができるのか、私が興味があるのはそこであり、そのために勉強をしているのです。
「思いやりが大切」ということを言い続けても思いやりのある人間になることはできません。私は「思いやりには知識と経験が必要」ということを学びました。
いずれにせよ、私が生まれるわずか5年前にこのような裁判が行われていたことは知っておきたいです。
最後まで読んでくださりありがとうございます。