「義務教育」とは?教育は子どもの権利、親の子どもに対する義務
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コラム
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「義務教育」というあたりまえに使われている言葉について考えてみました。
出典 写真素材足成
参考にするのは「脱洗脳教育論」(苫米地英人著 牧野出版)です。
堅苦しい話になりますが、これを知っていると子育てはずいぶん楽になると思います。
だいたい親が子育てに対してストレスを感じるのが、「~しなければならない」「~でなければならない」という脅迫観念に対してです。
それがそうなっていない、というところにストレスがあるわけです。
その代表格が「学校」です。
「学校」については、そうとう思い違いが横行しているように思います。とりあえずその思い違いを解消したうえで、「どうするか」ということを考えてみる、そうすれば子どもの進路なども決してストレスにはならないと思います。
憲法ではこのように規定されている
出典 写真素材足成
「日本国憲法」は何のためにあるのか?言いかえると、
誰が誰を取り締まるためにあるのか?
という問いになりますが、それは
国民が“国の権力”を取り締まるためにある
のです。
日本国憲法第二十六条
〈日本国憲法第二十六条 1〉
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する
教育を受けるのは「権利」なんですね。
だから、学校をはじめとする「教育」を受けるかどうかは、権利を行使するかしないかの個人の問題なのです。
ですから、ほんらい「不登校」が問題になるわけはないのです。
私は学校に行きません(行く権利を行使しない)
で終わりなのですから。
教育を受けさせる義務の誤解
〈日本国憲法第二十六条 2〉
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする
これを読んで、
ほら、子どもに教育を受けさせなければいけないでしょ
子どもは学校に行かなきゃいけないでしょ
と思った方、ちょっと待ってください。
最初に書いた、「憲法は誰が誰を取り締まるものか」を思い出してほしいと思います。
国民が権力を取り締まるものです
ですから、「教育を受けさせる義務」を負っているのは国家権力です。具体的に何をするのか?それが、
義務教育は、これを無償とする
なのです。
これはどういうことかというと、お金がなくて学校に行くことができないという状況を放っておくのは、国として義務を果たしていることにはならない、ということです。
だから無償にしているのです。
そしてその権力に付随するものとしての親なのです。子どもにとっては親が最大の権力ですから。
では、親の義務とは何かというと、「払うべきお金は払う(給食費など)」「“行かせない”という強制をしてはいけない」などになります。
もちろん、「お金が払えない」という状況ならば、その状況を打開するのは国の義務となるのです。
誤解されがちなのですが、
教育を受けさせる義務→子どもを学校に行かせなければならない→子どもが学校に行きたくなくても行かせなくてはならない
ではない
ということです。
フランスでは?
出典 写真素材足成
フランスでは、公立の学校は大学まで授業料は無料です。私が行っていた大学へ払うお金は年に5万円程度でした。
これは授業料というより管理費みたいなものだと思いますが。。
いろいろな記事を調べましたが、やはり3万円くらいです。
あるとき、
日本では年間50万円だ
と授業で言ったら、各国の生徒から驚きの声があがりました。
その授業には10ヶ国くらいの国籍をもった生徒が集まっていましたから、世界基準でも日本の学費は高い、ということでしょう。
権利には責任が生じる
出典 写真素材足成
私はいずれ子どもに話をしようと思っているのですが、それは、
教育を受けるのは権利
であることはもちろんですが、
権利には責任が生じる
ということです。
たとえば、授業中に生徒が騒ぐという“学級崩壊”があります。
子どもが、「私は学校に行きたい」とその権利を行使するならば、
授業を聞く、騒いで授業の進行を妨げてはいけない
という“責任”の部分を伝えなければいけません。
ちなみに、私は憲法の条文に反して、
労働も権利
だと思っています。
といっても、「労働は義務」という考え方を数十年間かけて植えつけられてきましたから、今はそれを解いている最中、ということになりますが。
まとめ
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「脱洗脳教育論」(苫米地英人著 牧野出版)を参考に、
親として子どもの進学や通学をどう捉えるか?
について考えました。
学校に行っている=義務を果たしている
不登校=義務を果たしていない
から
学校に行っている=権利を行使している
不登校=権利を行使しない、または別の権利を行使する
というのはなかなかの“発想の転換”かもしれません。
発想の転換をしなければいけない、という話ではありません。あくまで、こう考えれば親も子どもも楽になるのではないか、という視点で文章にしてみました。