論理力がつく国語の教科書


夏目漱石の「こころ」です。文章は「青空文庫」からの引用です。




第一問   




 私は月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は先生と別れる時に、「これから折々お宅へ伺っても宜ござんすか」と聞いた。先生は単簡にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりでいたので、先生からもう少し濃かな言葉を予期して掛ったのである。それでこの物足りない返事が少し私の自信を傷めた。




 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺かされるたびに、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけこんな心持ちが起るのか解らなかった。それが先生の亡くなった今日になって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。




Q:鎌倉で「先生」と知り合ったばかりの頃の「私」の心情が描かれています。太線部の「私の予期するあるもの」とは何か、先生が私にとった態度の理由について私が気が付いたこと、それらを自分なりにまとめてみましょう。































A:「私」は「先生」に好意を抱き、お互いの関係も親しいものになっているものと思っています。しかし、もしそうだとすると、先生の私に対する態度はあまりにも冷たく素気ないものです。私は先生に、優しい笑顔を求め、もっと自分のことを話してほしい、私のことにも興味をもってほしい、と思っています。ただ、先生は私のことが嫌いで、煙たくて冷たい態度をとっているわけではない。先生はまず自分を軽蔑している。自分を軽蔑しているから他人を軽蔑してしまうかのように振舞ってしまうということに気が付きます。

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